【党文化の解体】第2章(3)2 「知識人を批判する」

知識人を改造する(イラスト=大紀元)

1958年の映画『上海の娘さん』は、公開後にまもなく厳しい批判を受けたが、その原因は次のようなものであった。「第一に、党書記や支部書記による指導・教育がない中、知識人は大胆にも原則を堅持し、建設中に自己の才能を発揮している。これは党の指導を取り消し、党の指導に反するものだ。第二に、知識分子の軟弱性、動揺性、現実からの乖離、人民からの乖離などの欠点が描かれていない。これは、資産階級と知識階級を美化するものである。第三に、(中略)主人公は、労働者の中の堕落した思想の影響を受けて、目の前の功利を求めるようになったと描かれているが、(中略)これは、労働者階級に泥を塗るものだ」。このうち、第三の原因は、労働者と知識人の関係を挑発するものでもあった。

 これらの知識人を侮蔑する宣伝は大きな作用を果たした。なぜなら、知識人はそれまでずっと社会の論調の指導者であり、社会問題に対する発言者であり、伝統文化の継承者であるとともに論述者であったのが、その形象に泥が塗られてからは、彼らの代表する価値観もまた転覆していったからである。大衆の眼には、知識人はもはや、尊敬され教えを請う対象ではなくなり、あざ笑われ、批判される対象となったのである。

 もし上述のような侮蔑が「名誉上の毀損」であるならば、知識人の生業を絶つことは「経済上の遮断」であり、反胡風運動から反右派運動、文革までは知識人の「肉体上の消滅」の一部であったと言える。

 中共の政権奪取時に生死を共にし、互いに助けあった民主派らは自らを本当の開基立業の功臣であると認識していた。このため、「肝胆相照らし、栄辱を共にした」中共もまた、彼らの強烈な社会的責任感と高大な抱負が十分に発揮できる機会を与えてくれるものと思っていた。

 意見を述べるようにという「真心からの」要請に応える形で、「士は己を知る者のために死す」という崇高な考えを持った義士たちは、競うようにして大義慄然と意見を述べたが、結局、皆あまりにも悲惨な結末を迎えたのであった。

 人々は中共のなすところを目にして、「党の天下」が何を意味するのか、十分に理解したのであった。つまり、「人民民主専制、あるいは人民民主独裁」ということであったのだ。

 章伯鈞、章乃器、羅隆基、儲安平……等々の著名な文士は、愛国のため留学から帰国した博士であれ、財を共産党に投げ打った資本家であれ、大臣、教授、文学者、編集長、記者の地位からことごとく共産党の右派カテゴリーに放り込まれたのだが、彼らには、「民主」「と「独裁」が党によっていかに「人民専制」に結合されうるのか、冷酷な現実の中でどうにもはっきりさせることができなかったのである。

 中国は悠久の歴史上で、「精忠報国(忠をつくして国に報いる)」、「捨生取義(生を捨てて義をとる)」「人格尊厳」「先に天下を憂いて、後に天下を楽しむ」などの伝統的な品格があったが、これらはすべて、彼ら末代の鴻儒博学の士の孤独な死とともに歴史上の舞台から永遠に消え去った。

 人々は恐怖のうちに、積極的にこの世の天国を掲げてそれを餌に誘った共産党がまず先に建立したのはこの世の地獄であった、ということをはっきりと目にしたのである。

(イラスト=大紀元)

運よく生き残った人たちは、それ以来戦々恐々として、もう二度と伝統的な価値を持ち出すことはなくなり、知識人としての独自の思想と人格を堅持しようともしなくなった。例えば、馮友蘭と郭沫若は、毛沢東に一言批判されただけで、驚いてすぐに自分の学術的な観点を変えてしまった。知識人にとって、独自の思想と人格を保つことは命がけのことであった。これらの虐げられることによって造られた知識人の内心の苦痛は、決して筆舌に尽くすことのできるものではない。

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